綾が谷さんと一緒のところをりえちゃんに見られて、
不倫かと問い詰められていた頃・・・谷さんもまたある人物に
疑惑の目を向けられていた・・・。
☆
夕方。谷さんの仕事場。
谷さんが事務所での仕事を片付けて、五条の旅館に向かおうと
準備をしていると、後ろから声をかけられた。
「谷さん・・ちょっといい?」
声の主は栗田さんだった。
栗田さんはバツイチ子持ちの40過ぎの女性で
ここの社員だった。
ちょっと化粧が濃い。
いつも真っ赤な口紅を塗っていた。
女の子のバイトには少し厳しかった。
「ああ、栗田さんどないしたん?」
「谷さん・・・昨日出町柳の叡山電車の乗り場にやはったよねえ」
「え?」谷さんは一瞬驚いた。
「それに・・・あの娘・・・・二年程前にここにいた・・・・なんて言ったかな。
そうそう藤川 綾ちゃん・・・一緒やったねえ?・・・なんで?」
「なんで?・・・・昨日偶然町で会うただけや・・・」
「怪しいやん・・・それでなんで叡山電車に乗るの」
「ちょっと、ちょっと・・・何言うてんの。僕、今からどうしても五条行かなあかんねん」
「じゃあ、終わったら店に戻ってきて。それから話の続きをしましょう」
栗田さんは怪しげな微笑を浮かべて、谷さんを送りだした。
谷さんは深いため息をついた。
「栗田さんかあ・・・参ったなあ」
谷さんはこの日、五条で仕事をしたが、
後のことを考えると憂鬱だった。
栗田さんは・・お酒を飲むと豹変することで有名だった。
恐怖の社員旅行でもそうだった。
悪夢の社員旅行が甦ってくる。
セクハラの嵐・・・
逆ナンもある。
夜中もおちおち眠れない・・・寝こみを襲われる危険もあったのである。
谷さんが仕事を終わって店に戻ると、栗田さんが待っていた。
「じゃあ、行きましょ。ここ乗せてね」と言い終わる前に
もう助手席に乗っていた。
短めのスカートのすそからスリップがのぞいている。
(あーーあ・・・)
「木屋町行って!」
「木屋町?飲むつもり?」谷さんが聞いた。
栗田さんは当たり前でしょと言う顔をしていた。
谷さんは栗田さんとは出来るだけ、飲みたくはなかったけれど
綾とのことを誤解されたままではまずいと思い、
仕方なく付き合うことにした。
☆
その後は悲惨だった。
栗田さんは焼酎をぐびぐび飲んで、
すぐに前後不覚の状態になり・・・
話をするどころか結局谷さんが彼女のマンションまで送って
行かなければならなくなった。場所だけは一度社員のみんなで
お邪魔したことがあったので覚えていた。
千鳥足の栗田さんの脇を抱えて部屋の前まで行った。
それでも、栗田さんは歩けないようなので
玄関の中まで送った。
部屋にはかすかにタバコの匂いが残っていた。
☆
「じゃあ、僕はこれで失礼するよ」谷さんは聞こえていないように見える
栗田さんにそう言った。
帰ろうとした谷さんを栗田さんが引き止める。
「待って。お茶でもどう?」
「いや、いいよ・・・。君を送ったから失礼するよ」
「いや・・・・待って」
栗田さんが谷さんの手にすがりついた。
「!」
「私・・・・ずっと前から谷さんのこと、好きやったんです・・・・」
「え・・・」
谷さんはさすがに驚きを隠せなかった。
「でも・・・谷さんあの娘のこと気に入ったはったでしょう?」
「そんなことはないよ。ただ・・・なんかあまりにもドジやから・・・・
ほっとけへんかった。それだけや」
「うそ。北山店に連れて行った時は?着物まで着させて・・・。
今までそこまでしはったことないでしょ?」
「いや、あれは別に・・・あそこの店は着物やろ」
「嘘。私だって女です。
谷さんはあの娘にはいつも必要以上に優しかったわ。
それくらいわかります。だから・・・ずっとそばで
谷さんを見ていてつらかった」
「でも・・・・君なあ。・・・・・僕は結婚してるんやで・・・・」
「もちろん、結婚してるのはわかってます。
でもそれとこれとはまたちょっと別なん違いますの。
結婚していても人を好きになってしまうことはあるでしょ?
それに・・・気持ちは止められへん」
谷さんは黙って、栗田さんの話を聞いていた。
が、ここで否定をしておかなければ綾への気持ちを肯定していると
とられかねない。
「栗田さん、僕は妻だけや。ずっとそうや・・・。今までもこれからも。
だから、藤川さんのことも何とも思ってない。
思ったこともない・・・・・」
(綾・・・・ごめん。君を守るためにはこう言うしかない)
「ほんまに?・・・でも今奥さんこっちにやはらへんでしょう?」
「うん・・・?・・・・知ってたんか?」
谷さんの奥さんがここ数ヶ月、実のお父さんの看病で東京に
戻っていることを綾は知らなかった。
でも栗田さんは同僚から聞いて知っていた。
「私、離婚してずっと一人で寂しかった・・・・」栗田さんは涙を見せながら言う。
「うん・・・・色々大変やったやろうなあ・・・・」
「だから・・・・そういう言葉かけんといてください。私、嬉しくなってしまうでしょ」
「・・・・・」
(じゃあ僕はどないしたらええんや)
「私、明日休みなんです。息子はだんなの所に行ってて・・・
しばらく一人なんです」
「僕は明日も早出なんや」
谷さんはやや冷ややかに聞こえる調子で言った。
栗田さんは濡れたような瞳で谷さんをじっと見つめた。
「ここに泊まって行かはりませんか?」
谷さんは何も言わなかった。
と言うより、何も言えなかった。
「もう帰るよ」谷さんは足早にマンションを後にした。
☆
急いで車を走らせた。
栗田さんの寂しいという気持ちはわかる。
わかるけれど・・・・栗田さんの気持ちを受け入れることはできない。
谷さんは真面目でストイックな人だった。
性に対しても・・・・・女の人と遊んだ事もなければ、
買った事も無い・・・。そういう気持ちになったこともなかった。
わりと淡白な方かもしれない・・・・自分ではそう思っていた。
ただ・・・綾のことは、・・・そう。
初めは面白い子がバイトにやってきたなあと思って見ていた。
とにかく、鈍臭い。
高校を卒業してすぐだと聞いていたので、
まあ仕方ないにしても・・・・それでも鈍臭い。
よく失敗していた。
でも、どこか田舎っぽくて、でも一生懸命で・・・
笑顔が可愛くて、憎めない子だった。
着物だけはものすごく似合いそうな雰囲気の子だった。
一度、栗田さんの指示で
新京極の町中を台車を引いて歩かなければならず・・・・
派手なオレンジ色のミニスカートの制服を着て、
それが恥ずかしかったのだろう・・・・。
ガラガラと、とんでもなく大きな音を立てるボロ台車を押して、
店に戻って来てから・・・・
屋上で一人で泣いていた。
その時から・・・・妙に気になった。
まるで中学生の頃に戻ったような気持ちだった。
声はかけなかったが・・・・
一人で屋上で泣いている後姿を見た時から、
綾のことをなんとなく見るようになった。
そう、初めはただ・・・それだけのことだった。
☆
栗田さんがそんなことを言うものだから、綾のことを
思い出してしまった。
谷さんは自分の感情をずっと押し殺していた。
誰にも気づかれないように・・・・細心の注意を払っていたつもりだった。
でも、五条の仕事の手伝いに綾を指名したことで、
また、着物を着せて北山の店に連れて行ったことで、
栗田さんには怪しまれていたのだった。
いつもしないようなことはするものではないな・・・谷さんは思った。
妻にも2度ほど言われたことがあった。
「あなた、お仕事大変なの?最近ちょっと元気がないわね」
それは・・・祇園で綾が酔っ払いに絡まれたと言って、
泣きながら五条の自分の仕事場の近くに来た時だった。
そして 2度目は妻に・・・・「あなた、一度お医者さんに行ったら」と言われた。
そう・・・・それは綾と上加茂の自分の生家で・・・・
初めてくちづけを交わした日だった。
綾は恐らく初めてだった。
初めてのくちづけだった・・・そう思った。
☆
あの瞬間、綾が自分を求めていたことはよくわかった。
痛いほどわかったけれども、これ以上はいけない、
絶対に手を出してはいけない・・・と自分を抑えた。
必死に抑えた。
自分も綾を求めていたから・・・・。
・・・・・・苦しかった。
まだ自分の中にそういう情熱があったことにも驚いた。
本当は彼女を抱きたい。
この腕に抱きたい。
あの真っ白で柔らかな肌をむさぼってみたい。
あの花のつぼみのような何も知らないあの娘を・・・・
泣かせても、一つになりたい・・・。
そして、朝も昼も夜もずっと、ずっと一緒にいたい。
狂おしいほど求め合って・・・。
本当はそう思っていた。
☆
夢の中でだけは何度も綾を抱いた。
夢の中では綾は無邪気で、そして淫らだった・・・・。
ははは・・・・・・これが男の本性か。
谷さんは自嘲して自分を戒めた。
なぜ、自分にそんなことが出来ようか。
なぜ、綾を自分のものに出来ようか。
自分には妻も子供もいる。
生活がある。
谷さんにとって、それは絶対に叶わない事だった。
どんなに切なくて、苦しくても・・・・。
絶対に。
谷さんは綾を見守ることにした。
そっと・・・・。
そして、自分の感情はさらに強く押し殺すようにしたのだった。
それから、ほどなくして綾は突然バイトを辞めた。
2年前の夏だった。
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