カテゴリー「お土産や編」の記事

綾の19歳から大学に入るまでのお土産やでの日々

お土産や編「抱いてあげます、私があなたを・・・・」

抱きしめていた腕をほどいて、綾は谷さんの目を覗き込んだ。

こんな状況なのに、この人はちっともぎらぎらしていない。

もしもこれが若い男ならどうだろう?

テレビドラマで見るように、もっと思いつめたような・・・

なんか「やらしい目」をしているものではないのかな?

たとえば、獲物を前にした獣のような・・・・

綾は自分でちょっと笑った。

谷さんがあまりにもいつもと変わらないものだから。

この人はあまりエッチではないのかしら。

それとも、余程大人なのかしら。

この場合の大人という定義は全くよくわからない曖昧なものだけど。

              ☆

              ☆

              ☆

「谷さん・・・・」

「綾・・・・おいで・・・・」

綾は急にドキドキして体が固まってしまった。谷さんに背中を向けた。

(ああ・・・どうしよう・・・・ちょっと怖い)

谷さんは綾を後ろから抱きしめてきた。

そして、耳元に唇を押し当てた。

でも、綾はその時初めてわかった・・・

(あ・・・耳・・・・あかんわ。力が抜ける・・・)

立っていられなくなる・・・・。

本当にこういう時はいったいどうしたらいいの?

「ちょ、ちょ、ちょっと・・・待ってください・・・・」

谷さんは真っ赤になっている綾を前向きにした。

「どうしたの?りんごみたいな顔して・・・」

なんだか意地悪く聞こえる。

「いつもはけっこう大胆なこと言うのに・・・・」谷さんは笑っている。

「もうっ。意地悪ですね、谷さん・・・・」

「そう?そんなつもりはないけど・・・」

でもこの距離感が綾には嬉しかった。

谷さんの心がとても近いようで。

「綾・・・どうする?とても無理なら・・・一緒にいるだけで構わないよ。僕は」

谷さんが極力明るく振舞ってくれているのがわかる。

考えたくないけれど、明日からはもう会えない・・・・会えないから・・・・。

そんなことを考えると、急に涙がこぼれそうになる。

谷さんは察してくれているようだった。

              ☆

「一緒にお風呂に入るか?」

「はい?」

「お風呂に入ろう。背中流して欲しいなあ・・・。

 男の憧れやなあ・・・」

この人は、すごい。泣きそうだった気持ちが和らいでくる。

綾の心は決まっていた。

心の中で思っていた。

口に出しては言えなかった。

「抱いてあげます、私があなたを・・・・」

谷さんは先にお風呂に向かっていた。

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お土産や編・「ロストヴァージン?」

谷さんと綾は二人きりで神戸にいた。

ただ、この時、この瞬間だけは何も一切を考えないようにしようと。

お互い家族には嘘をついていた。

綾は伯母の信頼が厚かったので、友人の所に泊めてもらうから・・・と

前もって伝えておいた。

谷さんは綾にただ「心配ないから」とだけ言った。

綾はただ谷さんのことをひたすら一途に思っていた・・・

本当にただそれだけのことだったので、奥さんから奪うとか

不倫だとかそういうことは全く考えていなかった。

そう、世間一般で言うなら、結婚している人と恋愛することは

「不倫」ではないか。けれども綾そうは考えなかった。

綾は不倫という言葉が大嫌いだった。

             ☆

ここは神戸の少し山の手だった。

二人は昼間に少し街を歩いて、夕方そこにいた。

そこというのは、ビジネスホテルだった。

谷さんが手配した・・・・とても静かで落ち着いたビジネスホテル・・・。

建物はレンガ造りで、つたが絡まっていた・・・。

そう、綾が好きな倉敷のアイビースクエアによく似ていた。

二人は窓から神戸の港に広がる夕方の景色を見ていた。

おそらく綾はこの寂しいほど美しい夕方の港の風景、

大好きだった谷さんと見た景色を一生忘れないだろう・・・・

谷さんもずっとその景色を眺めていた。

谷さんもまたこの時間を覚えておいてくれるだろうか・・・・。

二人は言葉を発しなかったけれども、この夕方の景色を

同じ景色を共有していた。

年もだいぶ違う二人・・・・・。

環境もおかれた立場も全く違う二人。

けれども、初めて会った時からお互いの瞳の中には

きっと何か通じ合うものがあった・・・。

それは綾だけではない・・・おそらく谷さんも感じていた・・・・

谷さんは綾よりも大人である分、いずれ二人がそうなるであろうということを

もしかしたらわかっていたかもしれない・・・・。

だからこそ、谷さんはお土産やでも綾のことを必要以上には

構わなかったし、距離も保っていたのだ。

綾がお土産やをやめる直前の今になって、

谷さんは綾の気持ちを受け入れる決意をしたのだった。

しかし、そこには問題があった。

谷さんは綾にそれだけは伝えておかなければならない。

どんなに残酷でも、それだけは伝えておかなければ・・・・・。

            ☆

谷さんは綾を真っ白いシーツの敷いてあるベッドの上に座るように言った。

「藤川さん・・・ここに座って」谷さんも少し間をあけてベッドに座った。

綾は谷さんにこの日、これから一緒に過ごす間だけは綾と呼んで欲しいと頼んだ。

谷さんは綾の気持ちを察してか、照れながら

「綾」と呼んだ。

「聞いてくれるか・・・・」

「はい」綾は言った。

「僕が話すことを君が聞いてくれて、それから考えてくれたらいい・・・

 その後、君がどうするかは君が決めて欲しい。

 僕は男やから・・・・どうすることもできる」

綾は谷さんが何を言い出すかのおよその見当はついていた。

だから谷さんがどのタイミングで言うのか・・・・

覚悟していたし、待っていたというのもある・・・・。

綾は19歳にしては大人びていたかもしれない。

谷さんが話し始めた。

「僕は結婚している。

 妻と子どもがいる・・・・。

 君の事を好きだと堂々とは言えないんや・・・。言うたらあかんねや」

「はい・・・・」綾は小さく返事をした。

でも綾にはわかっていた。

もうこの時、谷さんは綾のことを思ってくれているということが。

一時の気持ちでもいい・・・・

でも綾のことを思ってくれてると・・・。谷さんは続けた。

「僕は一緒にいてあげられへん・・・。いたくても一緒にはいられへん。

 もっと若い頃に会えたら・・何度そう思たかわからへん・・・・。

 ・・・・・君の夢も・・・・見たわ」

谷さんは黙った・・・。

でも横顔が少し悲しそうに見えた。

あかんなあ・・・・。

きっと。この人のこの悲しそうな、寂しそうな顔が好きなんだと思う・・・・。

本当に好きなんだと思う・・・・。

この顔を見ていると、胸がキュンって痛くなるのだ・・・・。

綾は谷さんをぎゅっと抱きしめてあげたくなった。

大人の男性なのに・・・・。

こんなに涼しげで整った顔なのに・・・・なんでそんなに寂しそうな顔をするの。

「谷さん・・・・」

綾はベッドから立ちあがると、谷さんの前に立った。

綾は谷さんをそっと抱きしめた。

谷さんはほのかなお香のような香りがした・・・・。

かつてこんな気持ちになったことがあったろうか・・・・。

こんなに人を愛しいと思ったことがあったろうか。

なんでそれが谷さんなのか。

なんで、家庭のある人なのか・・・・。

             ☆

綾は谷さんを抱きしめながら・・・・

谷さんの頭を自分の胸にうずめながら・・・・

谷さんに言った。

「私を・・・・私を・・・・抱いてください」

いつの間にか、夕焼けは消えて・・・・・

街には色とりどりの明かりが灯っていた・・・・。

綾は今日だけは、たった一日、今日だけは谷さんと一緒にいられると思った。

そして、谷さんと結ばれたいと思った。

谷さんなら・・・谷さんになら・・・・何をされてもいい・・・・

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お土産や編・「時を越えた編」

「・・・たにさん・・・・たあにいさあん・・・・」

ここは京都の東福寺にあるとある病院である。

「ほらほら、谷さん、お昼ご飯の時間ですよ。今日はたくさん食べてください」

谷 陽介は今年80歳の誕生日を迎えた。

この部屋は病棟の3階にある老人専用の介護病棟の一室である。

谷老人はかれこれ、一時間も窓の外を眺めていたのだった。

もうこの病院に来て数年は立とうとしていた。

              ☆

「にさん・・・・たにさん・・・・。谷さん、こんなところでうたたねしていたら

 また風邪を引きますよ。前に肺炎になって大変やったでしょう?」

「ああ・・・・夢を見てたんやなあ・・・・」

「ねえ、谷さん、もうすぐ奥さんのご命日だったでしょう?

 毎年、お寺に行かはりますやん・・・・。ねえ。

 今年は新人の綾ちゃんがお供しますよ。

 紹介するから、待っててくださいね。

 寝ないでくださいね」

いつも身の回りの世話をしてくれる介護助手の山田さんは

小走りで病室を出て行った。

少しして、今度は二人で戻ってきた。

これはまた、若い娘だった。

新人の綾は谷老人の方を見てぺこりと頭を下げた。

「綾です。今月からここでお世話になります。よろしくお願いします」

谷老人は少しの間、何か考え事をしていた。

綾は山田さんからいろいろ説明を受けている・・・。

(あ・・・・や。あや。・・・・・あや・・・・・)

谷老人は何か懐かしいものでも思い出したかのように

遠くを見て、微笑んだ。

「そういえば、谷さん、いつも机の引き出しの箱・・・・大事そうに

 してらっしゃいますね。・・・・何が入っているんですか?」

「おおう、これか・・・・。今日は特別に見せてあげようかな。

 ほっほっ・・・ほっ」

「谷さん、今日はご機嫌です。なかなかしゃべってくださらない日もあって・・・・」

山田さんが綾に説明している。

谷はゆっくりと引き出しをあけ、小箱を取り出した。

和紙が貼ってある、いかにも京都という風な小箱である。

ゆっくりと中を開ける。

二人の女性が覗き込む・・・・

「まあ、可愛らしい・・・・。さくらんぼのこれ、キーホルダーと言うんですか。

 まあ本当にかわいいですね」

綾も笑顔でうなずいた。

「なくなった奥様との思い出のお品かもしれませんね」

谷は何も言わなかった。

だたただ、懐かしそうにそれを眺めているだけだった。

            ☆

そのさくらんぼのキーホルダーは谷が30年以上も前に

仕事先で親切にしてやった若い娘からお礼にと・・・・渡されたものだった。

妻との思い出の品はもちろんたくさんあったのであるが、

なくなってからはあまり見ないようにしていた。

ただ、このキーホルダーだけは、谷を明るい気分にさせてくれるので、

長い間、自宅の書斎の引き出しにあったのを、

病院に来るときに持ってきたのであった。

ただそれだけだった。

ただ、谷はその若い娘、藤川 綾のことは忘れがたかった。

谷の心の中に鮮明な記憶として、

その若い娘の姿が残っていたのである。

その娘があまりにも田舎くさくて、どんくさくて・・・・

仕事先で失敗ばかりしていたからなのか・・・・

失敗ばかりしていたように記憶しているのか・・・定かではないが。

だた、可愛らしかった。

何かけなげで、一途に自分を慕ってくれていた・・・それはわかった。

けれども、そのときにはすでに自分には妻子があった。

だから、いくら慕われてもどうすることもできなかった。

どうることもできないけれども、放っておけなかった。

仕事で京都の町を一緒に歩いた。

五条にも行った。

彼女はいつも自分の話を真剣に聞いていた。

そう言えばただ一度だけ、一度だけ・・・・・・・・・・・

             ☆

「綾ちゃん、谷さんは持病がおありなので少し気をつけてあげてくださいね。

 体をなるべく冷やさないように・・・・。

 無理をしないようにしてね」

「はい、わかりました。・・・・・あのう、山田さん・・・・・

 谷さんは元々京都の方なんですか?

 私、どこかで・・・どこかでお見かけしたような・・・・

 なんか以前お会いしたような・・・なんかそんな感じがしたから。

 私の祖父に似てるのかな・・・。いや、違うな」

綾は不思議にこの老人に魅力を感じながら、

一緒に行く墓参りのことを考えていた。

「一生懸命、お世話させていただきます」   

           終わり            

 

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お土産や編について

一旦、これで特別編のサスペンスタッチ?どこがやねーーーーん・・・・・は終わりです。

前にも言いましたが、ど素人のため、かなりの無理な展開?いや、強引な

筋書きはご容赦願います。

次に、元々は中井英夫的な幻想的結末とかなんとか言っていたのですが、

まあちょっと無理っぽいので、これは一話で完結で、

「時を超えた編」とさせていただきます。

さらさらっとアップしてしまいますよ。

ではでは・・・。これが終わったら、いよいよ渾身の「エロスな展開」を

書きますので、待っててね(冗談)

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お土産や編・特別編⑱別人

綾の記憶が消された後、綾はお土産やをやめた。

正しくは、突然家庭の事情とやらで、やめなければならなくなったと

連絡が入り、ある日を境に姿を消したのだった。

綾は別人になっていた。

それは、姿かたちのことで、

長かった髪は短く切り、化粧もするようになった。

野暮ったいような、スカートメインの服装も、

かなり派手目に変わった。

お土産やで一緒だった人はまず、気付かないだろう。

家族には、単なるイメージチェンジだとしか

思われない・・・・ただそれくらいの変化だったのだが。

綾の伯母は綾の変化にもさほど驚くワケでもなく・・・・

本当に、ただ本当にイメージチェンジしたかったのだろうと

考えていた。

若い娘にありがちな気まぐれくらいにしか思っていなかったのである。

ただ、綾が今まで以上に真剣に勉強する姿を見て、

これで綾の家族も安心するだろうとそちらのほうに気が向いていた・・・。

            ☆

            ☆

ある日。

清水寺の近くの三年坂。

この日、谷 陽介は 二年に一度くらい仕事で訪れる清水焼の店に

来ていた。

仕事が一段落し、店の女将にお茶を勧められて不意に店の外に目をやった時、

外に「綾」がいた。

いや・・・・綾にソックリな女性だった。

髪の毛はかなり短く、化粧もかなり施している・・・。

綾はいつも薄い控えめな口紅を引いているだけだった。

服装も垢抜けている印象だ。

綾のはずはないか・・・・・谷 陽介は思った。

綾がある日突然、店をやめてからもう二ヶ月以上になる。

             ☆

その時、その女性と一瞬目が合った。

谷は心臓をぐっと摑まれたような感覚を覚えた。

しかし、ほんの一瞬の出来事だった。

その女性は友達と一緒だったらしく、

谷のいる前を通り過ぎて・・・三年坂を下っていった。

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「ねえ、綾ちゃんちょっと休もうよ。足が疲れたよお」

「うん・・・・じゃあ、そこに美味しい御茶屋さんあるから・・・・」

綾は何か腑に落ちない風に・・・・・

いや、何か大事な事を忘れているような・・・・・・

気持ち悪いような・・・・・

不思議な感じに襲われていた。

「ねえ、綾ちゃん、ちょっと・・・・どうしたの?」

「ううん、なんでもないの。ただ・・・・・なんか・・・・

 上手く言えないけど・・・さっき知ってる人に会った様な気がしたんやけど。

 それが思い出せなくて。

 多分気のせいかな・・・」

綾はしばらく考えたが、やはり自分の勘違いだったと思い直した。

この日、京都は見事な快晴だった。

歩き始めた綾の頬を秋の風がかすめていった。

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お土産や編・特別編⑰消去

綾は事務所の一室にいた・・・・。

メアリ婦人は綾に優しく聞いた。

「綾さん、本当にいいのですね?」

綾は頷いた・・。

「これ以上は続けられませんから・・・。私、谷さんのこと・・・本当に・・・」

「ええ、ええ、わかっていますよ」

「初めて会った時から・・・ステキなひとだなあ・・大人だなあ・・・と感じました」

「そうね、今回は初めての仕事だったのに、つらかったわね。

 あなたのように素直で純情な子にはちょっと無理があったわね」

「本当に好きになってはいけない仕事ですもんね・・・・私には

 好きなふりをするなんて無理でした。すみません・・・」

「いえいえ、いいんですよ。またひとつ貴重なデータになるんですよ。

 ここには膨大な例があるんですから・・・」

「あの、ひとつ聞いてもいいですか?」

「ええ、どうぞ。何でも聞いて頂戴」

「あの、祇園で酔っ払いに絡まれたこと・・・あれもこちらの計画だったんですか。

 もしかして・・・。なんかいくら考えてもあの日から、歯車が・・・ 

 って言うか谷さんとの距離が急に近くなったから・・・」

「ええ、そうです。ごめんなさいね。あなたには何も伝えてなくて。

 あの酔っ払い役の人、ちょっとやりすぎたって反省してたわ。

 バイト代、減らしたわ。あれはいけません・・・。

 ボタンちぎるなんて・・。あなた結局 怪我までしたものね」

「谷さん、放っておけなかったんでしょうね。私泣いてしまいましたし」

「谷さんね、あなたのこと、多分最初は面白い子だなあって思ってらしたみたい。

 そうねえ・・・やっぱり祇園の事件からかしらねえ・・・・。

 男性は事件に弱いから」

綾は懐かしそうに谷さんと過ごした日々を思い出していた。

「あのう・・・・では、北山の店に入った日のことは・・・」

「ええ。あの日がどうかした?」

「夕立に遭ったんです。それで・・・・谷さんの生家で雨宿りして・・・・」

メアリ婦人は綾の言葉をさえぎった。

「あの日のことは、いいんですよ。あれは谷さんがなさったことでしょう。

 こちらでは干渉しませんよ。・・・・ なにかありましたか?」

綾は何も答えなかった。

あの日、プログラム終了の告知を受けたのだった。

「あの日、奥様からこのプログラム終了の連絡を受けたんです。

 正式にね・・・。奥様は谷さんのご様子からして、わかってらしたのね。

 あなた達がどうやら本当に愛し合ってるんじゃないかって。

 ・・・・・あなたもつらかったでしょう。

 でももうすぐ終わるからね」

「はい。私は大丈夫です。覚悟はできてますから・・・・」

「じゃあ、そろそろ行きますか?」

「はい。最後にひとつだけ・・・・聞かせてください」

「奥さんは、谷さんが私のこと好きになったと思っていらっしゃるんですね?」

「ええ、そうよ」

綾はひとつ微笑んだ・・・・・そして・・・・言った。

「谷さんが本当に愛しているのは、奥様だけですよ。

 それは間違いありません・・・。じゃあ・・・もう行きます」

綾は椅子から腰を上げると、細い廊下を歩いて、

建物の一番奥の真っ白い部屋に吸い込まれるように消えていった。

             ☆

             ☆

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こうして綾の中の全ての・・・谷 陽介の記憶は消された。

もう二度と、その記憶は戻らない。

完全に消去されたのだった。

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お土産や編・特別編⑯メアリ婦人と谷明子の会話

祇園の事務所にて。

「奥様、いかがでしたか?」

メアリ婦人は明子に紅茶を出しながら聞いた。

「ええ・・・」明子は少し青ざめていた。

「今回のことで、主人がまじめで誠実な人間だということが

 よくわかりました。でも・・・・やはり私が間違っていたのね。

 きっと・・・そうね」

「とおっしゃいますと・・・」

「夫はその若い娘のこと・・・・」明子はそれ以上は言えなかった。

メアリ婦人はわかりますよ・・・という共感のこもった目で明子を見つめた。

「愛を測った代償は大きかったと思います・・・・・」

「そうですね・・・・。奥様は今までずっと穏やかに、幸せに暮らして

 来られたではありませんの。・・・・だんな様に嫉妬したいとおっしゃって

 こちらに来られましたけど。嫉妬って想像以上に苦しいものでしょう。

 だんな様はもっと苦しいと思いますよ。

 奥様以上の苦しみですよ。

 ご主人を助けられるのは、奥様の愛情だけですよ。

 あなたは、これからだんな様を命を懸けて、愛してくださいませ」

明子は少し明るい表情になった。

「それから・・・・rxc7=綾の中のご主人の記憶は全て消されることになります。

 ご主人との接触の可能性は全て排除されます。

 そのように暗示をかけておきますので、ご心配はいりません」

「でも・・・ではその子は・・・・」

「もともと、それが仕事ですから・・・私どももそれなりの報酬を

 rxc7=綾には支払います。あの子は学費が必要だと言ったのですよ。

 あらあら・・・すみません。わたくし、余計なことまでしゃべってしまいましたわ」

明子はメアリ婦人に約束の金額を支払った。

あえてここには書かないけれどそれは驚くべき・・・安価だった。

明子は祇園の事務所を後にした。

「関西思い出クラブ」・・・なぜ自分がこの奇妙なクラブに

関わってしまったのか・・・・自分でもよくわからないまま・・・・

あの娘の人生はこれからどうなっていくのか・・・・

本当にこれでよかったのか・・・・

漠然と考えながら帰途に着いた。明子が町を歩いているその頃、

綾は・・・・事務所を訪れていた。 

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お土産や編・特別編⑮妻の誤算

7月のはじめ。宇治川のほとりにて。

「あなた、ホタルなんて久しぶりね」

「そうやなあ・・・」

「昔はよく一緒に見たわね」

夫、谷 陽介はどこか遠くを見ているような目をしている。

明子の目が一瞬きらりと光ったことを谷は知らない。

「あなた、お仕事で何かあったの?」

「いや、別に何もないよ。なんで?」

「そうですか」

夫は自分の唇に握った手を押し当てた。

それは何か考え事をする時の夫の癖だった。

{あの娘のことを考えているのかしら・・・・}

「なんでそんなこと聞くんや?」

夫はいつもと同じ優しい笑みを浮かべた。

涼しい顔に不意に広がる・・・・甘酸っぱいラムネのような感じ。

明子は昔から夫はこういう顔をして笑うのだと

懐かしく思った。

「もうすぐ、祇園祭りですね。今年は行きたいわ」

谷は少し考えてから

「すまんなあ・・・僕はいつものように五条で仕事やけど・・」

「ええ・・・」

              ☆

明子は「関西思い出クラブ」で奇妙な依頼をして

夫の母の若いころにそっくりな娘の写真を見てから、

そう・・・少したって五月頃から

夫の様子が時折、ほんの少しだけ・・・

本当にほんの少しだけ、普段と違うことに気が付いていた。

それは多分、夫婦の間でしかわからないような

かすかで、ほんの少しの違和感のようなものだった。

明子は夫が何か言い出すのを待っていた。

しかし、夫は何も言わなかった。

自分に余計な心配をかけたくなかったのだろうか。

             ☆

そう、夫は自分にいつも余計な心配をかけまいとする。

いつもそうだった。

そしていつも優しい。

優しすぎて、なにか物足りないと思う・・・・

自分はそんな優しい夫の愛を測ってみたかったのだろうか?

そんなにゆるぎない自信があったのだろうか?

今回のことで夫・谷陽介が心底まじめで誠実な人間であることがわかった。

誠実であるがゆえに、自分に嘘がつけない。

妻を傷つけまいとして、自分の心を押し殺している。

押し殺しているがゆえに、余計にその若い娘に心を奪われる。

多分、苦しいほどに・・・・

夫はその娘に惹きつけられている。

明子にはその気持ちがよくわかる。

夫のことだから、その子に手を出したりはしないだろう。

抱くこともないだろう・・・・。

それはなんの根拠もない明子の直感ともいえるものだった。

でも明子には確信が持てる。

夫はそういう人だから・・・。

            ☆

明子はもうこれ以上は無理だと思った。

祇園祭の日にあの娘のいるお土産やへ行って、

最後に会ってみようと思った。

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お土産や編・特別編⑭密約

そう、この「関西思い出クラブ」というのは秘密厳守、絶対に日の目を見ることはない

組織なのである。しかも悪の組織ではなく、善の組織。

一体誰が作ったのかも不明である。

しかし、人間の誰が善と悪を決めることができようか?

これは神以外に判断することは出来まい。

これからここに書くことは、神しか判断できないことである。

これを読んでくださった方は、ただこの話を聞いて、

納得されるもよし。

納得されぬもよし。

疑われてもよし。

信じてもよしである。

ただ、決して他言なされぬよう・・・・。それだけはお願いいたします。

          ☆

ある日、この事務所に谷 明子という女性が訪ねてきた。

この人は、みなさんはもちろんもうお分かりと思うが、

谷さんの奥方である。

谷 明子に応対したのはメアリ婦人であった。

この京都の祇園事務所はほぼメアリ婦人一人で応対しているようなものなので、

開いている日もあれば、開いていない日もあった。

それでも客はまたやってくる。

閉まっていれば日を改めてやってくるのである。

京都というのは、もともとそういう気まぐれが許される場所である。

なぜかって?京都は古い都です・・・・

細い路地の奥に誰が住んでいるかもわかりません。

実際に行ったことのある方はわかるかもしれませんが、

一歩踏み込めばそういう場所ばかり。

休みなら他のところをブラブラ歩けばいいのです。

ただし、もう次にこの事務所を探しても

見つからない場合もあります。

ある場所を一度は偶然見つけられたけれど、

もう二度と見つけることは出来ない・・そういう経験はおありでしょ?

           ☆

谷 明子は三度目の正直でやっとこの事務所に

入ることが出来た。

そしてなんともこの奇妙な風貌のメアリ婦人と話をすることが出来た。

「奥様、何か悩みがおありですか?」メアリ婦人はたずねた。

「はい・・・あの・・・実は、主人のことで」

「あら、そうですの。それでお話していただける範囲で結構ですので

 話していただける?

 こちらでお役に立てるかどうかはそれから判断いたしますわ」

「ええ、そうですね。わかりました・・・」谷 明子はこのメアリ婦人の

醸し出す雰囲気にすっかり打ち解けていた。

むしろ好ましく、もっとたくさん話したい気持ちになっていた。

メアリ婦人は、懐かしい昔のおばあちゃんを思わせるような、

女性を安心させられるような、

またこの人になら話しても大丈夫と思わせるような何か

不思議な力を持っていた。

谷 明子(以下;明子)は話し始めた。

「あの私、主人とは学生時代に知り合って、

 恋愛結婚したんです。でも、彼の家は特別な家で・・・

 つまり・・・・とある華道の家元の家だったんです。

 京都にはたくさんの流派がありますもの。

 珍しい話ではないですよね。 

 まあもっとも彼の両親はしかるべき家のお嬢さんと結婚させたかったんでしょうね。

 すごく反対されました。と言うのも、私は関東の出身で、

 実家は東京なのです。東京の女子(おなご)となど・・・あかんと言われました。

 それでまあ・・・・彼は家を捨てる覚悟をして、数年付き合った後、

 子どもが出来て私と結婚しました」

「あら、・・・そうですの。なんかとてもロマンティックなお話ね」

「ええ。まあ・・・それが・・・もう結婚して20年になります。

 最近は空気のような存在になってしまって。

 私はもっと刺激が欲しいのです。

 それで、彼にもっと嫉妬したり、怒ったり・・・悲しんだりしたい

 そう思うようになったのです」

「はあ・・それも何かちょっと腑に落ちないと言うか・・・。

 つまり奥様ご自身がご主人に嫉妬したいということですか。

 不思議なお話ですね。でもまあ続きを伺いましょ」

「はい、それで、とある本の片隅でこの「関西思い出クラブ」の

 ことを知ったのですけど・・・・。あの、ある方に主人を好きになって

 頂きたいの。もちろん、それは好きなふりで構わないんです。

 それで、主人がどのように変わるか・・・見てみたいのです。

 全く変わらないかもしれませんでしょ。

 でも、私を裏切るようなことは絶対にないと信じたいのです」

「はあ・・・・。まあそういう仕事をしてくれる人材はたくさん

 ありますが。・・・例えば、大変言いにくいことではございますが、

 奥様。もしご主人がその人材を好きになってしまわれた場合は

 いかがなさいます?

 これは大切なことでございますよ」

「ええ、そうねえ・・・とにかく肉体関係だけは困るわね。

 最後の一線だけは超えないこと・・・・。

 まあ、それだけを死守していただければ・・・多少は

 目をつぶります。だって、こちらがそういうお願いをしているんですものね」

「はい。わかりました。当方では、肉体関係は厳密に禁じております。

 それでですね・・・ご主人のお好みのタイプなど、ございましたら

 教えていただけませんか?

 参考にさせていただきます」

「タイプ?そうねえ・・・昔は美人が好きだったみたいだけど。

 多分、最近は違うわね。

 あまり痩せ方よりも、少しだけふっくらしてるほうがいいわ。

 それから、出来ればちょっと鈍臭いくらいがいいわね。

 あまりイケイケタイプではなく、むしろ少しおぼこいような・・・

 田舎の人みたいな方がいいかもしれないわね。

 まったく私の勘だけど・・・・」

「髪の毛は・・・」

「そうね、長いのが好きね。そうそう、あとこれだけはお願いね。

 着物が似合うこと・・・・これが一番のポイントね」

「え、なぜですの?」

「それはね、彼のお母さんがそういう人だからよ。

 さっき言ったのも大体は、彼のお母さんを思いつく限り

 形容してみたのよ」

「そうでしたか・・・・・なるほど・・・・」

「私とはタイプが違うでしょう?男はみんなマザコンよ。

 少し、歳を取るとなおさら母親を思うと思うわ。

 そういう年頃ですもの・・・・・」

「かしこまりました。まさにうってつけの人材がおります。

 ご紹介いたします・・・・」

メアリ婦人は立ち上がると、机の引出しから古いファイルを持ちだして

明子に見せた。

「本名は隠してございます。この子が、rxc7でございます。

 お写真はこちらです・・・・」

明子はその顔を見て、驚きの声を上げた。

「まあ、本当に・・・・。この子昔の彼のお母さんにそっくりだわ。

 気に入ったわ。お願いします」

そうして、この奇妙な契約は交わされたのであった。

4月の桜の頃の話である。

 

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お土産や編・特別編.⑬契約違反

これは先日お話しました、物語終盤の特別編です。

サスペンスの真似事みたいになっております。

興味のある方はどうぞ。ない方は飛ばしてくださいね。

          ☆

谷さんと初めてキスをした日・・・・綾が京阪の四条駅に行こうとしたとき

綾のカバンの中で、小さな器械が音を立てた。

そう、ウルトラマンのタイマーが鳴り、残り3分を告げるような音。

ピコン・ピコン・ピコン・ピコン・・・・

「藤川 綾。契約違反・・・ぎりぎりラインです。

 対象者に深入りしすぎです。それ以上は危険。

 今回の任務は強制的に終了の可能性あり」

綾はついに来たか・・・と思った。

そして、公衆電話からとある番号に電話した。

すると受話器の向こうからこんな声がした。

「rxc7・・・事務所に来てください。このメッセージは本日7時まで有効です」

綾はその足で事務所に向かった。

それは今いる場所よりも、もう少し祇園よりにあるとある小さな雑居ビル

の一角にあった。

「ああ、rxc7・・・こちらへどうぞ。よく来ましたね。お待ちしていましたよ。

 さあ、ここにかけて・・・」

「はい」綾は黒い革のソファに腰掛けた。

「さあ、あなたはなぜここに呼ばれたか、もうわかっていますね。

 自分の胸に手を当てて・・・聞いて御覧なさい」

白髪の老婆のような、それでいて顔は若々しいメアリ婦人(あだ名らしい)

は優しく綾に言った。

「はい、わかります・・・」

「そう、それなら話は早いわね。このまま行けば、あなたは対象者の

 谷 陽介さんとセックスまでしてしまうのではないのかしら。

 それはいけませんよ。わが「関西思い出クラブ」との契約に

 反するでしょう?ここでの規則は、対象者とは

 絶対にセックスはしないって約束があるでしょう?」

「はい」綾はうつむいた。

メアリ婦人は言葉を続けた。

「それに、対象者にいちいち恋愛感情を抱いていたら

 仕事にならないわよ」

あー、もう頭の痛いことをそんなに一度に言わないで・・・

綾は思った。自分だってわかっている。

対象者を好きなってはいけないことくらい。

でも谷さんのこと、自然に好きになってしまった。

初めて会ったときから。

強烈に。

他人とは思えなかった。

           ☆

綾は受験に失敗して、バイトでもしようと思っていたある日。

友人から面白い仕事があると言われた。

それはどんな仕事かとたずねると、その時はまだ言えないと

言われた。でもとにかく人生で一度やると忘れられない

すごい仕事だと言われた。

ただ、時には人生が変わってしまうかも・・・と

友人は言った。

後日、その友人に会ったとき、綾は事務所に連れて行かれた。

不思議なメアリ婦人が出てきて、仕事の説明を受けた。

「関西思い出クラブ」・・・・本来は人を助けるための機関である。

さらに細かい規定があった。

その中に

・対象者に深入りしない

・恋愛感情を抱かない

・この仕事に関して秘密を厳守すること

・対象者と肉体関係を持ってはならない

などなど・・・があった。

しかもよくよく話を聞いてみるとすこぶる風変わりな

仕事内容も事例として記されていた。

・病院で最期を看取る

・昔の恋人のふりをする

・擬似家族になる

・死期の迫った病人には願いを聞いてあげる場合もあり

(その場合、なるべく希望に添うように努力すること)

 その事例1・胸を触らせてと言われた場合→尽力する

        過去の実績99%

 その事例2・「愛してると言って欲しい」と言われた場合→心をこめて言う

        過去の実績100%

 その事例3・「死ぬまで手を握っていて欲しい」→実行する

        過去の実績96%

綾はこの資料を見せられた時、驚いた。

この世にこんな仕事があるなんて・・・まったく初耳である。

しかも、最後の方は責任重大どころか・・・人の「死」を目の当たりにする。

病気の人の最期・・多くは病院での任務になると聞いた。

            ☆

それでは、綾の仕事は何だったのか。

綾の対象者がなぜ、谷さんだったのか・・・・。

それは次回に明かすことにしよう。

(だんだん、偽物サスペンスになってきましたか?

 綾の記号化であるrxc7は意外と覚えるのが難しく、

 何度も間違っては打ち直し。

 それから綾の学生時代の超高級な怪しい仕事ベスト3。

 覚えてるのだけ書きますと・・・・

①遺体安置所で一晩遺体とすごす

②死体のホルマリン漬けの見張り

確かもう1個あったような気がするけど、思い出せません。

でも、世の中にはまだまだあなたの知らない世界がありますぞ) 

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お土産や編⑫くちづけ

悪い子や・・・と言って、谷さんは綾を抱き締めた。

そして、今度は「畳に横になって」と言った。

綾は言われるままに、畳に横たわった。

谷さんも横になった。

そして二人はお互いに見つめ合い、瞳の中に何かを探した。

綾は谷さんの瞳の中にある何かに、初めから惹かれていた。

その何かは文句なしで・・・他の誰とも違う・・

年齢も関係ない、言葉にはできない何かだった。

谷さんもいつのまにか、一途な綾の気持ちに気付き、

何気なく、見ているうちに、この可愛そうな娘を

放っておけなくなったのどうか・・・

確かに、綾に惹かれている自分がいた。

しかし、家庭があり、よき夫であり、よき父親である

谷さんは自分の気持ちをどうすることも出来なかったし、

この娘に惹かれている事自体を

自分の中で打ち消そうとしていた・・・・。

次第に、運命のいたずらのような出来事の中で

抗うことの出来ない・・・・本能に気付くのであった。

            ☆

谷さんは綾に「キスしよう」と言った。

キスはしようといわれて出来るものではないと綾は思っていたが、

谷さんに言われてみると、全然嫌な気持ちがしなかった。

谷さんの顔が近づいてきて、唇と唇が重なった・・・・

なんて柔らかい唇なんだろう・・・・そう思ったのはお互いにだったか。

谷さんの唇は見た目以上に柔らかくて

気持ちが良かった。

「もう一回」谷さんは言った。そして今度は綾の上に来て

顔を近づけた。

谷さんはもう一度くちづけした。

もう一回。

もう一回・・・・・

綾の身体は次第に電気が走ったようにびりびりとなる。

(私の初めてのキス・・・)

そして谷さんは言った。

「これ以上は無理。もう自分を止められへんようになる・・・・」

綾はとろんとした目で谷さんを見て、そして小さくうなづいた。

谷さんと手を繋いだ。しばらく手を繋いで・・・お互いを見ていた。

             ☆

「もう、夕方やな・・・。今日は僕どうしてもはずせへん仕事があるんや。

 店に戻らなあかんねん」

「そうですか・・・じゃあ戻りましょう」

「今度こそ着物をちゃんと着せてあげる・・・立って」

          ☆

谷さんの顔が真剣になる。

いつもの涼しげな顔。

そしていつもより少しだけ厳しい顔になる・・・

そして綾に着物を着せていた。 

このギャップがたまらなく好きだと思う。

そして、帯。

谷さんは帯もものすごく綺麗に結ぶのだった。

さらさらと帯がまるで生き物のように滑るように動いた。

「出来たよ。のどが渇いたなあ。ちょっと待ってて。

 それから僕は着替えてくるから・・・・待ってて」

綾は椅子に座り、庭を眺めた・・

雨は上がり晴れ間が見える。

この小さな中庭・・・和風庭園に綾は飽きることなく

ずっとずっと眺めていた。

「この庭は母が好きやったんや。狭いけど・・・

 なかなか面白いと思うよ」谷さんがカッターシャツと

スラックス・・・いつもの仕事の時の服装に着替えて

立っていた。

日本茶を持っていた。

「さあどうぞ。暑い時には熱いお茶がええんやで」

美味しかった。

谷さんがしてくれること、全て・・・

どんな些細なことでも綾は嬉しかった。

          ☆

「藤川君、ありがとう・・・・」

谷さんは何をお礼言ってるんだろう・・・。

キス・・・・?

私のファーストキス。

それから二人は四条に戻った。

谷さんは一旦店へ。綾は京阪の駅に向かった。

挨拶をする時・・・・谷さんは綾の顔をいつもより長い時間見ていた。

綾も見ていた。

そして綾はもうすぐ来る、谷さんとお別れする日のことを

考えていた。

さよなら・・・・谷さん。さよなら・・・・

  

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お土産や編⑪いけない抱擁

「立って・・・・僕が着物を着せてあげるから」

綾は谷さんに促されて椅子から立ち上がった。

谷さんは掛けてあった着物を取ると、綾に着せ始めた。

その手はゆっくり・・・・確実に・・・・そして優雅に動いた。

ああ・・・なんて谷さんの手はひんやりしていて、

上品で・・・・優しいのだろう。

「谷さん、なんでですか・・・

 なんでこんなに上手に着物を着せられるんですか。

 しかも男性なのに・・・」

「うん・・・

 僕の生まれた家はもともとある流派の華道の家元の家でな。

 まあ小さい頃から着物は着なあかんかった。でも親の方針で、

 自分で出来ることは全て自分でするって・・・な。

 そやから小さい頃から着とったんや。

 ・・・・それが今のかみさんと結婚する時に、家を飛び出して」

「そうやったんですか・・・・それで着物を」

(いや、それで奥さんを・・・大切になさってるんですね)

「藤川さん、後ろを振り向かずに聞いてくれるか?」

(谷さんのほうを見てはいけないってことですね)

綾はこくんとうなずいた。

「僕の考えは前に君に言った通りだよ・・・・。

 肉体的なことは一時的なものだ・・・

 でも・・・」

「精神的なつながりは永遠のものだ・・・ですよね?」

(でも、私は永遠のつながりよりも、今の谷さんが欲しい。

 谷さんが欲しい・・・ 心がこんなにも求めているのに・・・・)

「谷さん、さっき好きな人が出来たって言わはりましたよね・・・

 私・・・アホやから・・・そんなん言われたら期待してしまいます。

 なんで・・・・なんで・・・・そんなこと言わはるんですか。

 なんで。谷さんのこと・・・」

「ごめん・・・・僕が自分を抑えるのがしんどかったから・・・

 思わず、言うてしもた・・・・すまんかった・・・・藤川くん・・・」

(私は谷さんのこと、・・・ずっと見てました。初めて会ったときから)

「綾・・・あやって一度だけ呼んでもらえませんか」

谷さんは・・・ほんの少しためらってか・・・ほんの少し間を置いてから

「あ・・・や・・・」とあえぐように言った。声が少しかすれていた・・・・。

帯を結ぶ前に谷さんの手は止まった。

「あや・・・・」

谷さんが後ろからぎゅっと肩を抱き締めてきた。

谷さんの息がかかる。

「あ・・」

綾は切なかった・・・・どうして。どうして・・・谷さん。

頭がくらくらして、心臓がドキドキして・・・飛び出しそうになった。

綾が生まれて初めて感じた気持ちだった。

谷さんはかすかにお香のような香りがした。

いい香りだった・・・・・

「もう少しだけこのままでいさせてくれ」

            ☆

            ☆

「ダメです。ダメです・・・・谷さん。離してください」

「綾・・・藤川くん・・・」

谷さんは抱き締めていた腕を放した・・・・

そして綾の体をくるっと回して、前向きにした。

(谷さん、私は谷さんの瞳の奥にある・・・何かに恋をしています。

 でも・・・・)

          ☆

          ☆

          ☆

「谷さん、冗談です。初めての男なんて・・・嘘です。

 私、初めてじゃないです。そんな純情な子と違います」

「藤川さん・・」

「谷さん、いつもクールやから、ちょっと素敵だなと思て・・・

 からかっただけです。

 こんなんで今日は仕事できません・・・・失礼します」

綾は頭を下げると、走って去ろうとした。

その手を谷さんがぐっと引っ張った・・・・

確か前にも谷さんに手をぐっと・・・されたような気がした。

「わかった・・・・わかった・・・・。もうわかったから。

 君はそんなこと言わんでええ」

そう言って谷さんは綾をぎゅっと抱き締めた。

「ほんまに・・・君って子は・・・・悪い子や・・・」

 

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お土産や編⑩「着物を脱いで」

「さあ上がって・・・ここは誰もいないから」と谷さんは言った。

綾が不思議がっていると・・・

「ここは僕の生まれた家だよ」と谷さんは言った。谷さんの生家?

谷さんは黒く光る木の廊下をゆっくり進んでいく。

ガラス窓から見える中庭はまだ雨が降っていた。

六畳ほどの部屋に通された。

「着物濡れてるね・・・さあ脱いで・・・。乾かさな風邪ひくよ」

えぇ・・・ここで脱ぐの?着物・・・・

「僕は向こうで着替えてくるから・・・さあどうぞ。遠慮なく・・・」

そう言うと谷さんは廊下をまっすぐに進んで消えてしまった。

着物がびしょびしょだったので、綾は仕方なく着物を脱ぎ始めた。

            ☆

綾が肌襦袢になったところで、谷さんがやって来た。

「さあこれにかけて・・・。扇風機で乾かすよ」

谷さんは衣紋掛け(えもんかけ)を持っていた・・・。

谷さんのほうを見ると・・・谷さんも白っぽい着物にきがえていた。

谷さんって・・・・すごい。

着物の方がいつもよりかっこいい・・・・。

          ☆

綾は自分が肌襦袢姿だと言うこともすっかり忘れていた。

「ああ、さすがに肌襦袢は脱げないなあ・・・大丈夫?

ちょっと濡れてる?

バスタオル・・・かけて」

「は・・はい。何から何まで・・・すみません」

ふふ・・谷さんはさわやかな笑顔で笑った。

そして、谷さんが持ってきてくれた椅子に腰掛けた。

谷さんも隣の椅子に座った。

          ☆

よく考えてみると、谷さんにはいつも親切にしてもらっているけど、

谷さんのことは何も知らなかった。

「谷さん・・・・ここはご実家なんですか?」

「う・・ん、そうやなあ・・・まあそういうことになるかな」

「へえ・・・」

「ああ、そういえばこの前の祇園祭の日・・・仕事入ってたよね?」

「はい・・・」

「実は・・・あの時・・・」

「はい・・」

「うちの家族が店に行ったそうだね」

「はい、来られました。お嬢さんとお坊ちゃんと、奥様と。

 祇園祭のついでにちょっと寄ったとおっしゃっていたようでした。

 後で、栗原さんに聞きました。私も遠くから見ただけですが、

 奥様はとてもお綺麗な方ですね・・・・」

「藤川さん・・・あのな、僕が学生の時にかみさんに出会ってな。

 家族には反対されたんやけど・・・反対を押し切って結婚してな」

「はい・・」

「藤川さん、君は本当に魅力的だよ。でも、若い頃にあんなに好きになって

 一緒になった人を今・・何年もたって・・・また好きな人が出来たなんて

 言えないやろ」

「好きな人・・・・?好きな人って言われましたか?」

谷さんは椅子から急に立ち上がった。

そして椅子の前にひざまずいて・・・・綾の手をとった。

ドキン、ドキンと心臓が鳴るのがわかった。

 

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お土産や編⑨夕立

7月になり綾のお土産やでのバイトのシフトも残り少なくなってきた。

この日綾は午前中から出勤していたのだが、

11時ごろ少し遅い時間に来た谷さんが、綾のすぐ上の社員さんに

言った。

「北山店に藤川さん、貸してくれる?今日は人手が足りひんのや」

「 ええ、こっちは大丈夫ですよ。

藤川さん、谷さんと一緒に北山店に行ってくれる?」

北山店にはまだ一度も行ったことがない・・・。

仕事内容は大丈夫かな・・・。

そんなことを考えていたら、社員さんに

「大丈夫、大丈夫。いつもどおりよ・・・。でも着物着てもらっていい?」

と聞かれた。

このビルの二階の奥で着替えるのかな・・・。

事務所の裏だよね。

綾は「はい」と返事をした。

           ☆

二階の部屋で着物を探した。先輩の栗原さんに聞いてみた。

親切に教えてくれた。

「綾ちゃん、北山かあ・・・。ちょっと忙しいかもしれへんけど

 頑張ってきてな。着物は黒にして正解やね。ピンクはぼけるし、

 水色もなんかいまいちだよね・・・。

 この黒可愛いやん・・・・。

 あっちで着替えてきてね。出来たら言ってね。

 後ろの帯、結んだろ」

あ、綾は着物だけは一応着れます・・・。

上手ではないですけど・・・。

まあ、なんとか。

出て行くと、栗原さんは慣れた手つきで着物をぱぱぱと直してくれた。

その着物は多分、決して高価なものではなさそうだった・・・

でも黒地に白い花模様で、どこかモダンで・・・ぱっと見て、気に入った。

帯は栗原さんが結んでくれた。

「はい!出来上がり。綾ちゃん、よう似おてるやん・・・・」

「ええ、そうですか。なんか恥ずかしいなあ・・・」

事務所の方へ行くと、谷さんが準備をしていた。

ちらっとこっちを見ると、

今度はもう一度じっと見直してから

「馬子にも衣装やなあ・・・」と笑いながら言った。

それを聞いていた栗原さんが

「もう、谷さんたら・・・・わざとそんなこと言って・・・。綾ちゃんのこと、

 可愛いって思ってるんでしょ」とからかうように言った。

綾はとても恥ずかしくて、真っ赤になっていた。

谷さんが「ほんなら藤川さん、行こか。地下鉄乗らなあかんしなあ」と言った。

             ☆

地下鉄の四条駅まで行くのに、四条通を歩いた。

谷さんと並んで歩いた。

あまり会話は弾まない・・・。それもお昼前だし、

事件もないし。

ただ普通に並んで歩いた。京都の空は曇っていた。

          ☆

北山店に着いて、綾は言われた通り、仕事をこなし、

なんとか無事に終わったのはもう午後の2時半だった。

「疲れたやろ?ありがとうなあ・・・・。ご飯食べるか?

 この辺はいいとこ多いし」

谷さんとお昼ご飯かあ・・・。

ううーーーん、嬉しいけど、緊張するかも。

綾は思った。 

谷さんが連れて行ったくれたのは、地元の人しか絶対知らんやろ

というような、小さな定食屋だった。

一昔前の懐かしい感じのするところだった。

「藤川さん、着物のままで大丈夫やった?すまんなあ・・・ちょっと

時間かかってしもて。・・・ここの親子丼はいけるで」

「そうですか、じゃあ親子丼にしようかな」

綾は谷さんと一緒に食事なんて、しかも外なので

ちょっと緊張していたし、

まあ正直言って、着物着て長時間働くというのも

なれていなかったので、ちょっと疲れていた。

親子丼はとても美味しかった。

後で知ったことだが、ここの店は隠れた名店として昔からの

おなじみの客さんがとても多いということもわかった。

店を出ると、谷さんが「もう一箇所付き合ってくれる?」

と聞いた。

綾は「いいですよ」と言った。

ご飯を食べてちょっと心にゆとりがでてきたかな。

二人でしばらく歩いた。

京都といっても広いので、この辺りにあまり明るくない綾は

谷さんがどこに向かって、またどの方向に歩いているのか

皆目見当がつかなかった。草履に足袋だったので少し足が痛くなってきた。

          ☆

そのうちに、雲行きが怪しくなって

みるみる空が暗くなったかと思うと、

大粒の雨が降り出した。

「藤川さん、大丈夫?ちょっと走るよ」

谷さんは綾の手を取ると、

小走りに走り出した。さすがに着物の綾に気を遣ってくれている・・・。

そして、細い道に入ったかと思うと、

古い民家の前で立ち止まった。

「はあ・・・はあ・・・はあ・・・」

「ごめん、ごめん。濡れるよりはましかと思って走ったけど・・・

 ごめんね」

「いえいえ・・・はぁ・・・だ・だいじょうぶ・・・・で・・・す・・・・はぁ」

綾は息を切らしていた。

その家は表の格子戸を開けると、石畳の長い小道があり、

その小道の脇には笹やその他のいろんな木が茂っている。

ホトトギスや紫式部、南天・・・細い道によく似合う。

そしてまた奥に扉がある。谷さんはポケットから

何やら取り出して・・・・ガチャガチャとしていた。玄関の鍵のようだった。

鍵?がらがらがらと玄関の戸を開けると、

そこには昔風の小さい、でも掃除のよく行き届いている

空間があった。

「うわあ・・・素敵ですね・・・なんかおばあちゃんの家みたい」

「そうか・・・」

ここはさっきまでいたところとは別の世界だった。

京都の町にはこんなところが突然、現れるから不思議だ・・・。

「さあ、上がって」

谷さんは中に入ると、靴を脱いで、廊下をゆっくりと進んでいった・・・。

綾も濡れた草履を脱いだ。

しまった、足袋もぐしょぐしょになって、しかも汚れている。

綾が躊躇していると谷さんが気付いて、戻ってきた。

「ああ、そうか・・・濡れてるんやな。ちょっと待って。ここに座って」

玄関の上がり口に腰をかける。

谷さんは2段ほど下に下りて

綾の足の前にしゃがんだ。

そして・・・・

綾の足袋を片方ずつ、脱がし始めた。

「あっ・・」綾はくすぐったくて、自分でも変な声を出して赤面した。

谷さんは何も気付かない風に濡れた足袋を脱がせる。

「谷さんにそんなことしてもらって。あの、自分で・・・・しますから」

男の人に足袋を脱がしてもらう・・・・

そんなこと・・・・

恥ずかしいと思うけれど、着物の帯が邪魔をして上手くかがむことが出来ない。

それに気がつくと、着物までびしょびしょに濡れていた。

綾の足袋が両方とも脱がされた・・・・・

(これからどうなるんだろう・・・・着物も脱がないといけない?)

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お土産や編⑧谷さんの言葉

藤川さん、女性の美しさや可愛さは外面だけのものではないよ。

それから、心は見えないというけれど、僕は見えると思う。

心の美しさというものは見えないようでもおのずと

表に出てくると思う。

藤川さんがいつか僕の言ったことを思い出してくれて、

綺麗な心持で生きていってくれたら、

僕は嬉しいよ。十分や。

たとえ僕が藤川さんにとって初めての男でなくとも

僕は君の心の中でずっと生きていられるだろう・・・・。

          ☆

肉体的なことは一時(いっとき)のもの・・・

でも精神的なものは「永遠」のものだよ。

君には心の美しさを大切に生きてほしい。

それはいつか君が結婚して、お母さんになっても変わらないことだよ。

「いつか結婚して・・・・お母さんになっても・・・ですか」

谷さん、なんかすごいこと言ってくれちゃって・・・綾はそう思った。

でもとにかく、谷さんにとって綾は恋愛の対象にはなりえないんだ・・・

そう思うと、やっぱり悲しい気がした。

車が丹波橋の駅前に着いたときにはもう12時近くになっていた。

「シンデレラやな・・・・」谷さんは言った。

「そのシャツ、似合ってる・・・・」とも言った。

綾が頭を下げて、車を降りようとした・・・

その時。ほんの一瞬・・・

谷さんは綾の手をぐっと握った。

綾の感じた・・・男の人の力だった。

手を握られたのはほんの数秒のことだった・・・と思う・・・。

綾は体の中心にビクッと電気が走った。

綾もその一瞬、全てをその手にゆだねて・・・

目を閉じた。

谷さんは手を離した。

「おやすみ・・・」

綾はぺこりとお辞儀をした。

「ほんとに、参った。

 あ・た・し・は・どうすればいいんですかあ・・・・

 お月さま。たにさんのこと・・・好きでいていいんですかあ・・・・

 あの人・・・大人なんだもん・・・・

 小娘なんて・・相手にしないでしょうよぉー」

綾は夜の坂道をとぼとぼと歩いて、帰った。

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お土産や編⑦「大人をからかったらあかんよ」

満月の夜は人間の理性も狂う・・・って言うけど、綾も狂ったの?

いえいえ、きっとそうではなかった・・・はず。

          ☆

谷さんは、少し驚いたように綾を見たけど、ふっと優しい顔になって、

「大人をからかったらあかんよ」と言った。

綾はとっさに「からかってません」と言った。

「それなら・・・なおさら・・やな」

「どうしてですか?」

「もしも、僕が狼やったらどうすんの?とって喰われてしまうで。

 それにそんな目で見つめられたら、男やったら・・・・」

・・・・・・・・見つめられたら?どうなるの?

狼やったらという言葉が谷さんの口から出たのがどこか可笑しくて

綾は思わず笑ってしまった。

「笑った・・・・。君が笑うと花が咲いたみたいや」

「花ですか?何の花かなあ・・・・」

谷さんは言ってから楽しそうに、くっくっく・・・っと一人で笑った。

「ああ、もうこんな時間か。帰らなあかんな」

綾は帰りたくない・・・谷さんともっと一緒にいたいと思ったが、

時計は11時を過ぎていた。

谷さんこそ大丈夫なんだろうか・・・谷さんの家族のことが少し気になった。

「おうちは大丈夫ですか?」

「うん。もうみんな寝てるやろうな」

          ☆

谷さんは車を走らせた。

そして前を見ながら言った。

「もっとっもっと若い時に君に会えたらなあ」

つぶやくように。

綾は胸がドキンとした。

そして、ほんの少し寂しい気持ちが胸をチクンと突き刺した。

赤信号で車は止まった。

「谷さん・・・」綾は見つめた。

目と目が合った。

若い人ならきっと・・・絶対にキスのタイミングなんだろうな。

谷さんは、少しだけ眩しそうな顔をして、

すいっと視線を外した。

・・・・・綾は気付いていなかったけれど、

谷さんもほんの少し、寂しそうな目をしていたのだった。

「藤川さん・・・・」

谷さんは続けた。信号は青に変わっていた。

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お土産や編⑥「初めての人になってください」

「た・谷さん・・・」綾の顔はだんだん涙でぐしゃぐしゃになっていった・・・。

谷さんの涼しげな顔はこんな月の夜に見ても涼しげだった。

本当に谷さん・・・。

綾は谷さんのそばに小走りで駆け寄った。

(綾、ブラ・・・ブラが見えてるよ。さくらんぼ!)

「藤川さん、一体どないしたん・・・」

谷さんは(仕方ないなあ・・・)という顔をして綾を見ていた。

・・・・ほんの少し時間が流れた。

谷さんは仕事でたまたまちょっと遅くなって、ここを通っていたという・・・。

「送ろう・・・・車やし。通り道やから・・・。乗って。ほら」

「でも・・・・」

「気にせんでええから・・・ほら」

綾を助手席に乗せると、谷さんは運転席に座った。

谷さんはまっすぐ前を向いている。

「藤川さん、駅から歩くんやったなあ。そのかっこは・・・・ちょっと」

綾は黙っている。

「あっ」谷さんは何か思い出したように小さく叫んだ。

「僕のカッター(シャツ)があるわ。それ、着たらええ」

「え?」

「藤川さん、今日はそれを着て帰りなさい」

それから谷さんは少し、ばつが悪そうに・・・「それとその靴下」と言った。

綾が自分の足元に視線を落とすと・・・・

見事にパンストは破けていて、ひざ小僧はすりむけて、

血が線のように足首まで流れている(げげっ、怖っ)

「あちゃあ」

谷さんは気の毒そうに、ちょっと足を見ていたが、

ここでは目立ちすぎるからと、車を七条まで走らせた。

そして、七条川端のあたりに車を停めた・・・・。人通りは少ない。

「僕は外に出てるから・・・・着替えて」

そう言って、多分クリーニングから戻ってきたばかりの

きちんと袋に入った、カッターシャツを渡してくれた。

「すみません・・・・」

谷さんは外から中が見えないように、車にあった銀色のシートで

フロントガラスを隠した。そして窓も全て黒いサンスクリーンで

覆ってから車を降りた。

「さあ、どうぞ」

そして外側からロックした。

          ☆

          ☆

          ☆

綾は谷さんから渡されたカッターシャツを目の前にしながら

少し考えていた。

今、これを着て・・・本当にいいの?

谷さんのカッターだよ・・・。

(綾は車の中で服を脱ぐなんて・・・・ちょっと戸惑っていた)

でも綾は自分のボタンのちぎれたブラウスを・・・・

何か哀れなものを見るような気分で見ていたが

決心して・・・・

            ☆

すうっと脱いだ。

そしてカッターシャツに袖を通した。

パリっとしていて、いい香りがした・・・・。

谷さんは大柄ではなくて、しかも痩せているので、カッターシャツは

綾にもちょうどくらいだった。

そして、破れていたパンストも脱ごうとした・・・が

血が乾いて、傷にくっついていて、はがれにくくなている。

「いてて・・・」綾はムリに脱いだ・・・。

こびりついた血は濡れたティッシュで拭かなければ落ちないだろう・・・・。

            ☆

谷さんが車に戻ってくるのが見えたので

綾はロックを外して外に出た・・・

「少し風に当たるか・・・」

どこから買ってきてくれたのか、手には缶コーヒーを二つ持っている。

川沿いの石のベンチに腰をかけた。

「谷さん、ご迷惑をおかけしました。すみません・・・でした。

 ほんまに ありがとうございました」

「ん・・」

綾は言った・・・

「今日は福西に入ってたんです。それで、三木さんと別れて帰る途中で

 酔っ払いに声掛けられて・・・いくらって・・・聞かれたんです」

「・・・失礼やな」

「振り切って行こうとしたんですけど・・・ブラウス引っ張られて・・・ 

 ボタンが飛んでしもて。ほんで急いで帰ろうとしたら、こけたんです」

綾は少しおかしくなって・・・笑った。

谷さんは真剣に綾の話を聞いていた。

「谷さん、いくらって・・・私、そんな風に見えますか?」

谷さんは綾の顔をちょっと見た・・・・

そしてすかさず、

「全然」と言った。ちょっと言い方が少年みたいだった。

「谷さん・・・・」

「ん?なに・・・?」

「私の初めての人になってもらえませんか」

「初めて?」

谷さんの涼しい顔が少し驚いたように綾の顔を捉えた。

 空には月が輝いていた・・・・満月の夜。

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お土産や編⑤事件

話は祇園福西に行った日に戻る。6月のある日。

綾にとっては2回目の福西だった。

三木さんは彼氏の車で、夜の街に消えていった。

綾は、祇園から夜の街を通って、京阪の四条駅まで一人で

行かなければならなかった。

福西は祇園マハラジャの近くに位置する。

老舗の旅館だったのを数年前に修学旅行生向けに改装した。

          ☆

仕事が終わって細い道を抜けて、ちょうど高瀬川の近くを歩いていた時だった。

「少し遅くなったなあ・・・はよ帰ろ」と思いながら一人で歩いていると、

向こうから酔っ払ったサラリーマンがやってきた。20代後半。

綾が歩いていると、わざと通せんぼするように前に立つ。

「ねえ・・・ねえ・・・・おねえちゃん・・・いくら?」

「は?」綾は驚いた。

いくらってなんなの。

「ねえ・・・ねえ・・・って。ねえちゃん、いくらだって聞いてんの」

綾が困って横を通り抜けようとすると、

同僚らしき人が止めようとした。

「おい、お嬢さんが困ったはるやないか」

・・・でもそいつはかなりひつこかった。

綾が無視して通り過ぎようとしたとき・・・

その男の手が綾の白いブラウスを引っ張った形になった。

ビビッ。

ボタンが飛んだ・・・・。

6月・・・。

その日は油断した。タンクトップを着ていなかった・・・・。

ブラウスの前がはだけて、さくらんぼ柄のブラが丸見え・・・・だと思う。

(綾はちょっとキューティーハニーみたいに・・・・ボインでした。)

酔っ払いはさすがにその事態に驚いたのか

黙って・・・立っていた。

これは史上まれに見る最悪の事態なんて言ってる場合じゃない。

もう、こんな酔っ払いに会ったのが・・・不運だ。

腹が立って・・・そいつをひっぱたいてやりたかったが、

正直一分一秒でも早くこの場から離れたかった。

「こいつ、酒癖悪くて・・・本当にすみま・・・」

綾は酔っ払いサラリーマンの同僚が謝っている声も

耳に入らず・・・走って逃げようとした。

が・・・不幸なことに福西の日は黒のヒールを履くのが決まりで・・・

しかもそこは石畳だった。

カッツーーーーン。つま先が石に引っかかった。

綾は不恰好な形でこけてしまった。

黒いスカートから下着も見えていたかもしれない。

痛いーーー。

もう踏んだり蹴ったりで・・・・。

すりむいたひざ小僧はほっといて、

まずはブラウスの前を押さえて、

綾はその場を立ち去った。人が見ているのも関係なく。

歩いていたカップルなどは

「あーーあ~」という声まで発していた。

でもこれって

中学生の時、人が大勢いる前で、正座の形で階段から滑り落ちた時より、

駅のホームでつんのめって人前で「おっとっと・・・・」ってなった時より、

電車でぎりぎり滑り込みセーフ・・・って間に合った時より、

もっともっと恥ずかしい気がした。・・・・悔しい。

「いくら?」って聞かれた意味がなんとなくわかって、

ボタンちぎれて・・・・

ブラジャー人に見られて・・・・

勝手に涙があふれてきた。

泣いたらダメ。泣いたらダメと思うと余計に涙があふれてくる。

綾はどうしてそんなに悲しいのかもわからず・・・

ただ川端通りを人目を避けるようにして

五条の方へ向かって歩いていた。

自然に足が五条に向いていた・・・・。

霧のような雨が降ってきた。また雨か・・・・綾は思う。

夜の鴨川はきらきらと光を反射して輝いている。

今は緑の桜並木がさわさわと音を立てている。

ここの風景はいつも変わらないな。

綾は谷さんに一目会いたいと思った。

ほんの一瞬でいい。

谷さんの顔を見たら、きっと気持ちも落ち着くと、

そんな気がした。

          ☆

五条の旅館の前に来た。もう仕事は終わっている時間だろう。

もう谷さんは帰ったかもしれない。

その時、

街灯のともる道を向こうのほうから歩いてくる人が見えた。

白っぽいYシャツにスラックス。・・・・・谷さんだった。

         ☆

         ☆

         ☆

         ☆

谷さんは綾に気が付いた。

「藤川さん・・・・・どないしたんや?」

声をかけてから、

谷さんは一瞬驚いた顔をして・・・綾を見た。

ブラウスを不自然に合わせている胸元の手に

気がついたようだった。

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お土産や編④祇園でもらった変なお守り

谷さんに傘を借りたのは5月で・・・綾は借りたものは早く返さなくては嫌な性格だったので

バイトの時、谷さんに小さいお菓子と一緒に返した。

上の人に傘を貸してもらうくらいのことは別段珍しいことでもないようで、

綾が事務所で傘を返していても誰も特に注目したりもしなかった。

「谷さん、あの・・・傘、ありがとうございました」

綾がぺこりとお辞儀をすると、谷さんはにこっとして

傘を受け取った。

一緒に小さい紙袋を渡そうとしたら・・・ちょっと不思議そうな顔をしたが、

綾が「ご家族でご一緒に・・・。気持ちだけです」と言ったので、

「そんなんよかったのに・・。・・・・でも藤川さんが考えてくれたんなら・・・ありがとう」

そう言って受け取ってくれた。そういう前向きなところも綾が谷さんのことを

好きな理由だった。そんなん、いらんいらんといって返されたら、

せっかく選んだのに、悲しいもん。

            ☆

それから数日して・・・・。綾は同級生の三木さんという社員さんと一緒に

祇園の福西という旅館に行くことになった。

この福西は主に、三木さんが任されており・・・綾はそのヘルプで

入ることになった。

またいつものように修学旅行生にお土産を売るのだった。

でもここは他の旅館と少し違って、片づけにも

気を遣うし、服装にも、作法にも気を遣わなければならない。

もし、制服が少しでも乱れていたら、即座に大女将(おおおかみ)

から注意を受けた。

それで終わる時間が少し遅くなったりすることもあった。

ただ祇園は場所によっては少しだけ、気をつけなければいけない場合もある。

もちろん夜の話であるが。

その日は旅館を出ると、玄関から少し離れたところに、三木さんの彼氏が迎えにきてい

た。白い車だった。

三木さんは「綾ちゃん、今日は約束があって。ごめんね」とウインクして

車に乗っていった。

この三木さんは、普通に四条の街を歩いていても

「スカウトのお兄さん」に腕を引っ張られるほどの子で

すごく可愛い。そして、なんかエッチな雰囲気が全身から

醸し出されているのだった。また色白で垂れ目で口が大きかった。

ふっくらした唇は、いつも綺麗な口紅と、グロスで

きらきらしていた。

いつぞやは、祇園福西に来ているお土産卸会社の社長さんが、

三木さんに「君はもっと自分を大切にしろ。自分をバーゲンにしたら

あかんよ」と言っていた。三木さんのことをきっと心配していたんだろう。

三木さんはいつもかなり派手目の大胆な格好をしていたし、

実際、オレンジや黄色の派手な花柄、フルーツ柄も似合っていた。

若い割には少し化粧が濃いのは綾にもわかった。

           ☆

ある時は、綾にすごい話をしてくれた。

ただ三木さんはちょっと笑いながら、

「綾ちゃん、女の人はな、こういう風にカエルみたいな

格好するねんで」と言って、実際にちょっとやってみてくれた。

綾はきょとんとしてそれを見ていた。

そうそう、これもまたいつぞやの話で、

そのお土産卸会社の社長、森川さんは・・・・・突然、三木さんと綾に

「これはお守りや。大事にしいや」といって

お土産やのキーホルダーを入れるサイズの

そう、一番小さい紙の袋に・・・何やら入れて・・・

くださった。

それは硬い袋に入っており、触ると丸いわっかのようなものが

ぬるぬるっと滑るのだった。

「これ、なんですか?」

「ん?これか、いつか君にもわかるやろ」と森川さんは言った。

その時、綾は本当に、本当に、それが何かわからなかったのだが・・・・

それは綾が生まれて初めて手にしたコンドームというものだった。

何かわからないまま受け取ったが、

わざわざ森川さんが「お守り」と言って、真面目な表情で

渡してくれたので、綾はそれを・・・・もらったのだった。

教えてくれたのは三木さんだった。

そして・・・・家に帰ってから、綺麗な和紙で包み、糊できっちりと貼り付け

「封印」したのだった。

まだこのお守りにお世話になる時期ではない・・・・・と思ったのかどうかは

わからないけど。

その水色に綺麗な桜の模様が入った和紙に包まれたコンドームは

綾の机の引出しの奥深くにしまわれたのだった。

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お土産や編③五条の旅館にて

5時半過ぎ、玄関先に立つ。新京極を出る時には、霧のような雨が降っていた。

しまった・・・今日は傘を持たずに出てきたな。

それが時々雨脚をまし、小雨になって降ったり止んだり・・・・。

いつも旅館では「ようこそぉ~。おこしやすぅ~」または

「おかえりやすぅ~、お疲れさんどしたぁ~」・・・が挨拶。

この間延び・・・が大切です。

その日は「雨の中、お疲さんどしたぁ~」まあこんな感じか。

アドリブありだね。

嘘でも京都らしい感じを出さなければならない。

またみんな喜ぶのだ。

谷さんは他の仕事があるらしく、お出迎えはしていなかった。

綾ともう一人のバイトの晶ちゃんは売店の開店準備に入った。

          ☆

「修学旅行生のみなさんは夕飯を済まされて、7時半より入浴です。

 それからその前後にお土産を買いにこられます。よろしくお願いします」

と他の社員さんから説明を受ける。

綾はこのバイトを始めてから、他の旅館にもヘルプで入っていたので

大体のことはわかっていた。

時折、着物を着た年配の仲居さんが忙しそうに売店の前を通る。

修学旅行生がちょうど食事をしているのかもしれない。

           ☆

お土産タイムがきた。

見る見るうちに、人だかりができた。

小さい売店なんやけど・・・。まるでこの時間だけは戦いだな。

お釣りを間違えないように細心の注意を払う。

お金が合わなければ谷さんに迷惑がかかるだろう。綾はそう思っていた。

「お姉さん、何歳?」学生が聞く。

「18」

「へえーーー。若いじゃん。こんなとこで何やってるの?」

(バイトです。放っといてください。)

東京から来たというその中学生はかなり長いこと、

売店にいた。なんでも楽しい年齢なのだろう。

「彼氏いるの?」とか「大学行ってるの?」とか、まあ余計なことばかり

聞いてくる。

「あの、今仕事中やから・・・・。堪忍してください」

まあ、普段使いもしないような言葉を!!

しかもどう考えても、これじゃ舞妓さんことばみたいだな。

その中学生はこの「かんにん」という言葉に興奮したのか???

「かんにんだって・・・・。エッチーーー」とか言って友達とウケている。

おいおい、一体何をそんなに喜んでるの。

「やめとけよ。お姉さん赤くなってるぞ」もうーーーっ、堪忍してっ。

          ☆

戦いの時間は終わり・・・・お金の計算をして、店を閉める。

また中学生の何人かは、階段を下りて話し掛けにやって来る。

まあ珍しいのかな。

         ☆

「綾ちゃん、計算合った?」

「うーーん、20円足らずやわ」

「そう・・・こっちは大体終わったわ」晶ちゃんが言う。

谷さんを少しの間待つ。

この晶ちゃんという子はR短大で介護の勉強している子で、

金沢出身。色白。線が細くて・・・・・上手く表現できないけど

多分、男の人は放って置けないタイプじゃないかな。

大学生の彼氏がいて、しょっちゅうお泊りしていると言っていた。

ちょっと大人なんやあ・・・。綾は心の中でそう思っていた。

それでもって、晶ちゃんはちょっと小悪魔的な感じがする。

なんか「色目」というか「伏せ目」?・・・・横目でちらっと相手を見る。

綾にはその目が何か特別な輝きを放っているように見え、

晶ちゃんの中に「女」を感じるのであった。

「綾ちゃん、谷さんっていいよね。大人の男って感じ。好きになっちゃうかも」

ちょっとーーやめてよ。谷さんを誘惑しないでーーー。ショックだよーーー。

しばらくして、谷さんが相変わらず涼しい顔をしてやってきた。

「二人とも、ご苦労さん。疲れたやろ・・・・。車に乗って」

「あの・・・お金が20円足りませんでした」

「そっか、多いんやったらお客さんから余計にもらってるかもしれんやろ。

 でも足りひんのやったら・・・・ええよ。合わせておくから」

ほほーー。谷さんは面白いこというなあ。でもなんかやっぱ大人だよね。

余裕があるって言うか。

こういうときにも上品な感じがする。

谷さんが白い軽自動車にエンジンをかける。

晶ちゃんがちらっと綾のほうを見て助手席に乗る。

綾は後ろに座った。

車は疎水沿いの道を走る。

夜の川沿いはそんなに対向車もなく、昼ほど混むことも無い。

綾はずっと窓の外ばかり見ていた。

藤の森まで来た時、晶ちゃんは降りた。

そうか、あきらちゃんは藤の森に住んでいた。

晶ちゃんが降りたので、綾はTさんと二人きりになった。

「藤川さん、今日はありがとうな。助かったわ。また来てくれるか?」

「はい・・・」綾はそれだけ言うのが精一杯だった。

夜の車・・・あこがれの谷さんと二人っきり。この状態がちょっと苦しかった。

本当は嬉しかったけれど。

車はすぐに丹波橋の駅に着いた。

「ありがとうございました。おやすみなさい」

「おやすみ。気をつけて帰りや。あ、藤川さん、傘ないのか。

 これ、持っていくか?濡れたら風邪ひくぞ」

谷さんは黒っぽい男物の傘を出してくれた。

「え・・・」ちょっと感動。

谷さんの傘、使っていいの?濡れて帰ろうかとも思ったが、

素直に借りることにした。

「すみません、来る時降ってなかって。・・・ありがとうございます。

 お借りします」

「うん。どうぞ。傘も喜んどるわ・・・」にっこり笑う顔がなんともチャーミングだった。

谷さんは車をすいっと走らせた。

         ☆

本当に無臭だ。おやじ臭さもない。嫌味もない。

家庭でも優しいお父さんなんだろうなあ。

やらしい目で見たりしないし、変なことも言わないし・・・・。

(はい。実は色々あるんですよ。セクハラやら痴漢まがいのことやら)

それにしても、いつまでTさんを見ていられるんだろうな。

綾は雨に濡れて光る歩道を・・・・

ちょっと大きい谷さんの傘を差しながら・・・・そんなことを思っていた。

あ、これちゃんと返さなきゃ。         

  

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お土産や編②ときめき~チャンス

この土産やは若い女の子ばかりが大勢バイトしていたので、

当然、わいわいと男の子の話になることも多い。

女子学生の先輩などは、綾がまた体験したことも無い

ものすごい話を聞かせてくれる。

この頃はちょうど、異性と「付き合ったことがある」か、

「無い」か・・・・その狭間の年齢になる。

男性には聞かせられないような会話をする先輩もいる。

綾はそのとき、好きな人はいなかった。

ただ、バイト先に一人だけ・・・とても素敵な、

かなり年上の上司が居た。ここの社員さんで経理担当だと聞いた。

その人は、いつも控えめで、品のいい人で、既婚。

子どもさんは小学生だと聞いた。

綾はこの上司に会える日がとても嬉しかったし、

彼が担当している五条の旅館をいつかヘルプで入りたいと、

願っていた。

そのチャンスは一度だけやって来た。

         ☆

バイトに行くと、すぐ上の社員さんから

「五条の旅館に谷さんと一緒に行って・・・」と言われた。

綾の心は躍った。

谷さんの白い軽自動車で五条の旅館に着いた。

綾の仕事は修学旅行生を玄関で出迎えて・・・

それからは売店で京土産を売る準備をして、お土産を売ることだった。

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浪人時代・お土産や編①始まり

綾は受験に失敗し、浪人することにしたが、

先のことをきちんと考えないまま・・・

流される時もある。

京都の新京極の中にある・・・とあるお土産やで

急にバイトすることになった時も、

さほど深くは考えていなかった。

それは、綾の伯母が知り合いに頼んで、紹介してもらった

バイト先だった。

1つ言っておきたいのは、綾が生まれて初めて

働いて、人様からお金を頂戴したのは、

高校2年生の夏休み。

地元の友達がバイトをしていたうどんやだったが、

友達がその日、どうしても出勤できなくなったので、

その友人のために、4時間だけ働くというものだった。

誰でもそうなのか・・・。

人生初のバイトは・・・・惨憺たるものだった。

他の言葉は見つからない。

または他人に迷惑かけまくりとでも言えばいいのか。

うどん屋の開店準備で掃除をしてと言われ、

モップで床掃除を始めたら、

長年使っていた店のモップを「ブワキッ」という音とともに

根元からへし折ってしまった。

もう全く使い物にならない・・・。

店の主人は大人だった。

すみません・・・と謝る綾に、

「物はいつか壊れるから・・・このモップは壊れる運命だったんだね」

ううーーーーっ。泣ける。

綾はこの言葉を生涯忘れないでいようと思った。

この日のバイトは、ほとんど役に立てず・・・

使い物にならず!?最後は皿洗いをした。

これが人生初のバイトだった。

          ☆

18歳の綾はお土産やで働くことになったが・・・。

また趣味の悪い制服だった。

中途半端にミニの丈のエプロンで・・・綾も当然これを着なければならなかった。

エプロンについているポケットはかつて店の金をネコババしたバイトが

いたからと、すべてご丁寧に縫い閉じてあった。

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